某歌手や元プロ野球選手の薬物事犯、ではない。
子どもに足し算を教えるときに、1+1について、リンゴを二つならべて、一つずつ示しながら、1+1が2であることを伝える。
抽象的な物事を伝えるのに、具体的な媒介を設定することは、戦略的に合理性がある。
今日の時間割は、音楽だ。
サンフランシスコ交響楽団、ドレスデンシュターツカペレ、バイエルン放送響の演奏を立て続けに聞いた。ここには現代の縮図がある。
サンフランシスコ交響楽団は、20年以上も音楽監督をしているマイケルティルソントーマスとともに来日。トーマスはLGBTであることを公表しており、同性婚もしている。音楽は頭脳明晰分析的で、バーンスタイン亡き後のアメリカ・クラシックシーンをけん引した”鬼才”である。
このようなトーマス率いるサンフランシスコ交響楽団は、オーケストラにおける人種構成の多様性も世界一、まさにダイバーシティを体現しているような楽団だ。
当然、音楽も自由。それぞれの楽団員は、トーマスの音楽に深く共鳴しながら、しかし、それぞれの楽団員が皆各人の個性を存分に発揮しながら調和を構築していく。ここにいるのは指揮者も含めて皆「個人」だ。個人がまったく違うフレーズや音色やパッセージをもって対話をし、しかし、多様性が共生したまま調和に向かっていく。
多様な価値観と少数へのまなざし、そして、共生と調和、これぞリベラルな社会そのものではないか。
補足のために脱線すると、実は、同じカリフォルニア州の雄、ロサンゼルス・フィルも面白い。
音楽監督はグスターボ・ドゥダメル、1981年生まれの35歳のベネズエラ人である。若手だ。
貧困児童のための音楽プログラム”エル・システマ”を創始した、ホセ・アブレウ卿に見いだされ、ベネズエラの成り上がりの象徴でもあるスーパースターかもしれない。
マーラー国際指揮者コンクールに出場し、当時当コンクールの審査員でLAフィルの音楽監督だったエサペッカサロネンは、審査直後にLAフィルの事務局に連絡をした。
「僕の後任を見つけた、とても若いベネズエラ人だ」
どこの馬の骨ともわからないベネズエラの若者の名を指名されたLAフィルは困惑した。
しかし、サロネンの後任としてLAフィルの音楽監督になったドゥダメルは、現在、まさに時代の寵児として、世界を席巻している。世界中の主要オーケストラからオファーの嵐で、2017年1月1日には、かのウィーンフィルニューイヤーコンサートの指揮台に、ダントツの最年少で登場する。これは、紅白歌合戦のトリを新人中学生歌手がいきなり歌うくらい、異例だ(私は、ニューイヤーコンサートが「切り札」ドゥダメルをもうすでに呼ばねばならないくらい、クラシック界は危機に瀕しているとも思っているが。)。
そんなドゥダメルの母国ベネズエラは、アメリカにとって、簡単にいうと長年の「歴史問題」なのである(チャベスがブッシュを”悪魔”呼ばわりしていたのは記憶に新しい)。それを、アメリカのトップオケの音楽監督に据え、世界中にその芸術を発信している。まさしく文化外交の実務だと思う。
ドゥダメルのリハーサルに立ち会ったことがあるが、ドゥダメルは、とにかく楽団員に"personality"を要求した。偉そうでも、高飛車でも、引っ込み思案でも、温厚でも、それぞれの楽団員に「君は?どんな人間だい?」問いかけながら、音楽を作った。決してその個性を何かに収れんさせたり、強制的に一つの価値観を押し付けたりはしない。唯一彼が繰り返し叫んだのは「聞いて!」「対話して!」「それが自分がYesで相手がNoでも!」という言葉だった。あとは、ドゥダメルが指揮棒を上げれば、自然とすべての"personality"は、交響的(公共的)空間で対話(熟議)を経て、一つの音楽を形成していった。サンフランシスコ交響楽団のところで書いたものと同じことを書こう、「共生と調和」である。
そういう意味で、現在の社会で失われつつあるもの、もっと言えば、トランプ後のアメリカで失われそうなものが、西海岸の音楽シーンには、かなりプロトタイプかつ洗練された形で生きている。
これらの”多様性””対話””調和””共生”は、絵空事かもしれないが、アメリカが掲げた理念であったはずだ。我々は、これらの「現在」西海岸の誇る文化芸術を「あえて」守らねばならないし、新政権の文化政策も、注視する必要があるだろう。
これはアメリカ一国のことではない、急速に多様性等が失われ、分断が加速している日本社会にとっても、何かヒントが隠されているかもしれない。
アメリカのオーケストラは、合奏は正確かつ最強最大最重量最速、そして大量生産大量消費、ゆえにヨーロッパの古城の黴臭さや深い森、ほの暗い空等々の表現には適さない、エンターテインメント型オーケストラであった。ヨーロッパのオケに対して「アメリカのオケみたいな演奏だ」という揶揄もよくある。アメリカのオケには、いわゆるヨーロッパ文化であるクラシックの演奏はできないものとされていた。しかしどうだろう、「多様性」等の価値観は、むしろ普遍的であるし、無味無色だからこそ、世界に発信し、共感されるものではないだろうか。"post truth"といわれる時代に、実はアメリカの絵空事かもしれずに掲げていた理念は、普遍性をもって蘇るかもしれない。その普遍性を音色に乗せて運ぶ西海岸のオケの音に耳を傾けてほしい。
さあ、次に登場願うのは、ドレスデンシュターツカペレである。
1548年にザクセン選帝侯の宮廷楽団として設立され、ワーグナーやウェーバーとも関係のある、現存するオケ(歌劇場)では最古のオケの一つである。
音楽監督は、クリスティアン・ティーレマン、これまた、歌劇場の歴史ばりに古風な指揮者である。ワーグナーを祭るバイロイト音楽祭の音楽監督である。
ここまでの説明でご理解いただけるかはわからないが、ティーレマンの音楽はマッチョイズムの権化だ。タクト=棒=男性、を音楽に体現したような復古主義的な音楽で、誤解を恐れず言えば、ネオナチ的である。よくも悪くも独裁者的である。ちなみに、私は、指揮者が独裁者的であることにまったく嫌悪感も覚えないし、1スタイルとして承認するばかりか、望ましいとすら思う時もある。最近は、いろいろな「差異」を解消させようとするあまり、すべて「同じ目線」で語ることが是とされる。しかし、リーダーは対話するリーダーが良いわけではない。強力に、時に独裁的にけん引するリーダーも、その結果、誰にも到達できない世界観へ導いてくれるのなら、その船に乗ろうではないか。
オケの演奏能力は、世界随一、弦はニスをそのまま音にしたような深く粘りのある音、管楽器の号砲と豊潤な合奏は物理的にも強大で、トゥッティ(全楽器が一斉に鳴る)では、大げさではなく、コンサートホールの天井が落ちるかと思う。
そんなティーレマン率いるドレスデンの演奏は、一糸乱れぬ演奏で、全員が同じ方向を向いて、一気呵成に軍隊のように我々に迫ってくる。チャイコフスキーもリストもベートーヴェンも、ティーレマンの手にかかればワーグナーのようにマッチョだ。
アンコール、ワーグナーのローエングリン第三幕への前奏曲を聴いたときは、血液が沸騰し、脳からアドレナリンが噴き出て自然と全身から汗が出るのがわかった。演奏が終わった瞬間、ステージにダイブしたくなる衝動を抑えきれない。
暴力的なまでのマッチョイズムに統制された同一方向への推進力、そして、まるで自分が強者になったような感覚、血沸き肉躍るとはこのことか。
しかし、同時に、私はこのティーレマン&ドレスデンシュターツカペレの演奏が、とても息苦しかった。
皆が統率され疑いなどなくある特定の価値観に向かって一直線に突き進む音楽は、一方で排他的だ。これに共感できなければ、それは二級市民。
これはとても悪魔的な音楽だ、危険ですらある。人間の強者との同一化欲求を確実に満たしている。気づかない間に、この音楽に同化している、同化することで、それ以外のものを制圧した気分になる。これは人間に内在する感情なので、抗うのはとても難しいし、ひとたび抗うことは、排他や、「道を外れること」との対峙にもなる。
これは、現在の欧州社会の断片ともオーバーラップする。
欧州では、現在、いわゆる極右勢力が台頭し、また、彼らは「欧州文化の守り手」を自負する。ドレスデンシュターツカペレとティーレマンの演奏もそうだ。彼らは、ヨーロッパ文化における「ロマン」「理性」等々の体現者であり、守護神であることを、その演奏によって誇示している(補足すれば、これまた欧州随一のオケであるパリ管弦楽団も、楽団員の96%がフランス人と、サンフランシスコ交響楽団と真反対である。)。しかし、どこか浄化された世界への志向は、真空状態のように非現実的かつ息苦しい。
ここまで、非常にリベラルかつ多様性を具現化したサンフランシスコ交響楽団と、ヨーロッパ文化の守護神たらんとする極右勢力ドレスデンシュターツカペレを、対照的な存在として取り上げてきた。
どちらも、ある種、両極端の先鋭的な価値を体現する存在である。
最後に、バイエルン放送響だ。音楽監督はマリスヤンソンス。音楽は正統派で、まさに中庸の雄。お祭り男的な盛り上げはうまいが基本的には、とがっていたり奇抜な表現は採用しない王道の音楽であった。
今回のヤンソンスの演奏はどうだ。オケはさすが世界最強放送オケ、立派な音楽である。音の交通整理的なバランスも良い。しかし、ヤンソンスの音楽は緩かった、あえて踏み込んで言えば退屈だった。細部の引き締めや演出が緩くなり、全体として非常に弛緩した音楽であった。このとき感じたのは、ヤンソンスがど真ん中を歩いていた「中庸」は、弛緩した瞬間に「凡庸」に堕すのだ、ということである。
そして、メインプログラムのストラヴィンスキー『火の鳥』が終わり、カーテンコールに行き来するヤンソンスは、数回の往復のあと、舞台の袖で、倒れた。
会場は悲鳴に似た観客と楽団員の息を飲む声と緊張感に包まれた心臓病を患っているヤンソンスが倒れれば、皆の背筋に冷たいものが走る。数十秒倒れこんだ後、ヤンソンスはむっくと立ち上がり、両腕を上げ、力こぶを作るジェスチャーをして「大丈夫だ」とアピールした。心あるいは、足がもつれたのかもしれない。
しかし、あまりに象徴的だった。そう、「中庸」の敗北、そして、「中庸」の死である。直後アンコールで演奏したグリーグの『過ぎにし春』は、メインプログラムなど比べ物にならないくらいの緊張感と悲壮感を持って、万感の想いを込めて演奏された。まるで、それは「中庸」へのレクイエムであった。「過ぎにし」価値となってしまった豊かな「中庸」に対してのレクイエムとしては、あまりにふさわしい。
私は、この日の演奏会を持って、交響楽における中庸の終焉を感じた。そして、それはこの人間社会をそのまま映してはいないか。
上に書いた通り、サンフランシスコの対話に基づく多様性の共存と、ドレスデンの浄化された輝ける単一価値への志向は、対極をなしている。双方ともにとても刺激的であるし、すでに書いた通り、それぞれ悪魔的な魅力を内在している。しかし、同時に、これら二極は、それぞれの対極にある価値観がときに突然変異的に増殖しながら先鋭化し、その帰結として咲いた、とてもグロテスクな花だ。
両端に咲くグロテスクな花は、先鋭化した熱狂と陶酔を得、培養される。この土には、別地帯から浮遊した種は根付かず、いずれ、一種類の花のみに淘汰される。一種類になれば、当該種自体も、いずれは、絶える。
中庸の花は枯れ、その肥沃な大地には、種の対決を制したグロテスクな花が咲き狂うだろう。
それならば、それしか選択肢がないというのならば、その花だけでも多様性を内包し、差異と対話を包摂した、リベラルな花が望ましい。
しかし、私は、もう一度、包容力のある逞しい「中庸」の復権を目指したい。
「勝ち組」「負け組」や格差という言葉が氾濫する中で、中庸は、窒息していったのかもしれない。また、ポリティカルコレクトネスの旗のもと、細かい表現が、パソコンにプログラミングすれば出てくるような”正論”で叩き潰されていく。これは、ヘイトスピーチと対をなしつつ、一周して、同じだ。言葉の専制だ。
人々の悪魔的な欲求を満たすグロテスクな花の増幅によって、麻痺した人々は、もはや中庸を雑草のように踏みつけた。「中庸」は人々への訴求力を失っていた。
そして、人々は中庸の死骸の上で言う「もっと強いのをくれ」
これより強い薬は、行き過ぎた多様性がニヒリズムと化し、価値観自体が空中で瓦解するか、単一の価値観への極致的な収斂で巨人と化したマッチョイズムによる排外主義へと行きつくしかない。
つまり、極化した価値観は、いくら幅を広げても、支持者を得ても、「中庸」にはならない。
極化はどこまでいっても極化であり、これがエスカレートすると、「分断」に行きつく。欧米ではこの現象は明らかであるし、現代日本も、この状態に足を踏み入れている。
かつては中庸が日本を支えていた。「一億総中流社会」を掲げ、生活も思想も中庸であった人々が、日本社会の包摂性を担保していた。良くも悪くも分断を生み出さない”かすがい”となり得ていた。
中庸が死んだ今、極化のどちらかに加担するのではなく、もう一度「中庸」とはなんだったかを再考し、まさに「中庸」の再生、ひいてはより逞しい「中庸」精神の涵養をしていかなくてはならない。
私自身も、それが具体的にどのような思想で、どのような知的戦略で獲得できるのか、模索中である。しかし、必ずある。
だから、今は、取り急ぎ(!)皆さんに言いたい、目の前の棚に陳列されている二極化された思想商品から、自分に心地よいものを二者択一的に選ばぬよう。
一度手を出したらおしまい、きっと近い将来に言うだろう
「もっと強いのをくれ」